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特別寄稿 天皇陛下の生物学ご研究

波部忠重(日本貝類学会会長)

はじめに

 (財)水産無脊椎動物研究所が設立され、その機関誌「うみうし通信」が発行されるという。その創刊にあたり、何か書けとのことである。誌名が「うみうし通信」ということから、天皇陛下は生物学に深いご造詣をおもちであり、なかでもウミウシにご関心が強いということが、まず第一に思い浮かんだ。陛下は、馬場菊太郎の奉仕で『相模湾産後鰓類図譜』(昭和24年)、『相模湾産後鰓類図譜補遺』(昭和30年)を発表されている。天皇陛下の貝類のご研究に私は奉仕しているので、陛下の生物学研究の一端について述べる。

 時あたかも、国立科学博物館の創立110年にあたり、本年7月5日から8月7日まで、天皇陛下の生物学ご研究の特別展が開催された。かねて、天皇陛下は“生物学天皇”として国民のよく知るところであるが、実際にはどんなご研究をされているかについては具体的に知られていない点も少なくない。この特別展を見て、陛下がいかに広く生物学にご関心をもたれ、観察されているかを知り、いま改めて、ご造詣の深さに驚かされた。その中でも、ヒドロ虫というクラゲやイソギンチャクを小さくしたような動物を専門にご研究になり、公務のお忙しいなかを論文にまとめられ、ご自分の裕仁の名で、現在まで7冊もご発表になっている。さらに、近く大きな論文をご発表になるとも承っている。またさらに、相模湾の動物相については12冊、那須や下田須崎の植物についても6冊発表されている。
 この特別展の図録の中で米国のペイヤーが述べているように、昔から高貴の中には生物を好み収集して楽しんだ方は少なくないが、自ら研究して論文にまとめて発表した方は少なく、陛下が率先して生物学をご研究下さることは生物学に携わる者としてありがたく感謝している。
 陛下はご幼少の頃から生物にご関心が深かったが、大正2年、学習院初等科6年のとき、塩原御用邸でご採集になった昆虫標本が今も生物学御研究所に保管されているが、われわれが箱の中に昆虫を無造作に並べるのではなく、中央に植物標本を置いて、それに関係ある蝶や蜂の昆虫が配置されている。いまでいう生態標本であるが、こんなに早い時期に自然界の生物の相互関係を顕す標本をつくっておられることは、陛下が幼少の頃からいかに深くいつくしみをもって生物に接しておられたかを知り、深い感動をおぼえた。
 このことは、後に相模湾産生物をご採集になるようになってからも、ご幼少のときの御心が脈々と続いているのである。たとえば、海岸で石を起こしてその下側の生物を採集されたあとはまた元どおりに石を置かれたり、底曳で船上に砂泥を採取されたときも、その中の生物を必要なだけ採集されて、残りの砂泥は船で元のところまで戻って海中に捨てて生物が無駄に死なないようにご配慮される、と承っている。

生物学のご研究

 陛下のご研究の中心であるヒドロ虫類は、大正14年頃から服部広太郎の指導のもとにおはじめになった。なぜ、このような地味な動物の研究を選ばれたかについては定かに伺っていないが、当時日本にはこの類を専門に研究する学者がいなかったからともいわれている。海の生物についてはこれより以前、大正7年に沼津御用邸の浜に打ち上げられた海藻の中から偶然ご採集になったまっ赤なエビが新種とわかり、ショウジョウエビと命名されたこともあった。
 陛下は、ご静養のため葉山の御用邸に行かれると、その付近の海岸の生物を観察されたが、昭和6年からは底曳網で相模湾の海底生物の採集もはじめられた。ご公務の関係もあって、夏と冬が多かった。とくに冬は海が荒れやすく、船上で採集品を選別されるのは、陛下が船にお強いとはいえ、並大抵ではなかったであろうと推察する。採集品の中で、ご関心が深かったものにウミウシの類がある。陛下はこれらの形や美しさを愛されて、これらの生きているときの姿を所員の奥田浩男、加藤四郎によって写生図につくられた。この類は標本にするとすぐに色彩を失ったり、突起が縮んだりするので、生きたときの図が必要なのである。そして、その図や標本がふえていったが、馬場菊太郎がこの類を研究する生物学者で、ご質問にお応え申し上げていた。ところで、昭和21年3月、GHQ天然資源局長スケンクが生物学御研究所へ参上して、これらの美しい図を見て、陛下のご研究の深いことに驚き、ご発表になることをすすめた。そこで馬場菊太郎がお手伝いして、『相模湾産後鰓類図譜』が昭和24年、丸善から出版され、続いて昭和28年、時岡隆の奉仕による『相模湾産海蛸類図譜』、昭和30年に再び馬場菊太郎による『相模湾産後鰓類図譜補遺』の出版となった。その後も蟹類、ヒドロサンゴ類及び石サンゴ類、貝類、海星類、甲殻異尾類、吸管虫類、蛇尾類、海胆類、海蜘蛛類が出版された。これらは、陛下がご採集になった種類をそれぞれの専門学者がまとめた形になっているが、昭和42年からは陛下も専門学者のひとりとしてヒドロ虫類のご研究をご発表になるようになった。
 相模湾は珍奇な生物が多いことで世界に知られ、外国の学者も研究したが、陛下のご採集によって、一層相模湾の生物が解明されつつある。われわれ生物学に携わる者がすでに行っていなければならないことを、陛下によって推進させられている状態で、誠に申し訳ない。この業績は、日本の生物学史に輝くものである。

貝類のご研究

 陛下は、ご専門のヒドロ虫類についで貝類にご関心が探いようにみえる。ウミウシ類の属する後鰓類も広い意味では殻を失った貝類である。
 陛下は、大正2年3月、学習院初等科にご在学のとき、京都市岡崎にあった平瀬介館に行啓になり、貝類の形や色の美しさに感動されて以来、熱心に貝類を収集されるようになったと承っている。土屋正直待従の手記によると、昭和2年には、標本点数6,440に達したとのことである。すでに述べたように、昭和6年からは相模湾を底曳網で採集せられたので、その種類は急速に増加し、昭和9年には陛下のご採集品の中から、黒田徳米は新種ミタマキガイを発表するとともに、カノコシボリコウボネガイ、ヒラツノガイ、ホンチリメンニナなどの59珍奇種を報告した。さらにヒグルマガイ、ネダケシャジクガイなど次々と新種が発見された。
 昭和20年頃より、私は京都大学動物学教室で黒田と同じ研究室で貝類を研究することになったので、査定のため黒田へお送りになる貝類のうち、私の研究している分野は黒田に協力していた。また2人は、GHQ天然資源局長スケンクのもとで日本海産貝類目録を作成することになったので、時々上京する折、黒田が陛下に報告するため生物学御研究所に参内するのに随行し、後には波部も報告申し上げた。
 その後私は、昭和37年には国立科学博物館へ転任したので東京にいるようになり、しばしば生物学御研究所へ参上してご採集の貝類を整理した。昭和30年から40年にかけては、陛下が最も多く底曳をされたときである。ご採集の貝類もほぼ一定してきたので、いよいよ相模湾産貝類をまとめることになり、黒田、波部、大山を中心に、常陸宮正仁殿下にも加わっていただき、昭和46年8月、1,230ページ図版からなる大冊を出版することができた。陛下ご採集の貝は1,121種で、そのうち実に110種が新種であった。
 陛下は、昨年ご不快になられたが、今年になってご回復されて貝類のご研究を続けられ、下田須崎の御用邸でご採集の貝類は180種に及んだ。
 その後、夏頃から再びご不例にわたらせられている陛下が、一日も早くご快癒されることをお祈りして筆を擱く。

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